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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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そこでカツ馬ヶ嶽の麓にある細尾の谷まで行き、古座部から丹下を越えて稲包み山の麓の木根宿を越えて越後の国の山中まで辿り着きました。
さて、四万谷の喜美野の尾には 山田 与惣兵衛という者が住んでいました。 与惣兵衛は代々斎藤家に仕え、その御恩を忘れた事がありませんでした。 しかし、病気のために今回の合戦の時には岩櫃城に出仕していませんでした。 山田 与惣兵衛は斎藤 越前守 憲広入道が四万谷の山中を抜けて越後へ落ち延びたと聞いて、 「せめて山道をお見送りしたい。」 と思い遅ればせながら後を追って行きました。 しかし、病身の上に険しい山道をたどるのは容易なことではありませんでした。斎藤 越前守 憲広入道が岩櫃城を落ち延びてから三日後に越後国魚沼郡の長尾伊賀守領である嶋ケ原という場所で漸く追いつく事ができたのでした。 その時はちょうどお昼時であったため、斎藤 越前守 憲広入道は弁当を広げて休憩をとっていました。 ******* 斎藤憲広の逃亡ルート地図を作りたい・・・・。作ろうかな・・・・。 #
by sanada_life
| 2010-04-28 23:22
| 加沢記
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そうは言うものの、岩櫃城は他に並ぶ物の無い堅固な名城でありますから、たやすく城内へ近寄る事はできません。
ここかしこから侵入を試みますが、山の上から大木や大石を投げかけられなかなか近づく事ができません。 流石の真田勢も斎藤家のこの勢いに辟易して川向うまで引き退きました。 こうしてその日の夕方まで凌いだ斎藤 一岩斎入道 憲広親子は、一ヶ所に集まり 「嶽山城に引き籠っている城虎丸と一緒に越後へと落ち延びよう。」 と相談して、生き残った家臣を集めました。 ほどなく集まった100人余りと共に、高野平野の里(現在の東吾妻町原町の小字。古城ともいう。)へ下りて行った所、そこには真田 兵部丞 昌輝殿の配下である ・深井 三弥 ・田沢 主水 ・林 新左衛門 ・小池 太郎 左衛門 達が落人に備えて配置されていたため、斎藤 一岩斎入道 憲広は嶽山城へ向かうのを諦めました。 #
by sanada_life
| 2010-04-03 22:45
| 加沢記
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斎藤 一岩斎入道 憲広の二男 斎藤 四郎太夫 憲春が手槍を構えて応戦しましたので、矢沢 頼綱は
「取り逃すな。」 と下知を下し、不動の谷の南側で斎藤 四郎大夫 憲春を討ち取ったのでした。 目の前で二男を討ち取られた斎藤 一岩斎入道 憲広は 「弥三郎め。可愛がってやったのに。」 と言いながら焼け崩れた屋敷に戻り、腹を切ろうとしました。 そこへ長男の斎藤 太郎 憲宗が岩櫃城の出丸から戻ってきて切腹を止めました。 「ここで死ぬのはもったいない事です。我々が敵を食い止めますから父上は一足先に越後の国へ落ち延びてください。景虎卿(上杉謙信)にお頼りになり、もう一度御運を拓くのです。」 こう言うと、斎藤 太郎 憲宗は大薙刀を水車のように振り回し、岩櫃城の大手門・搦め手門に押し寄せる敵を押しのけたのです。 この時、斎藤 太郎 憲宗にお供したのは ・富沢 藤若 ・秋間 五郎 ・斎藤 無里之介 ・佐藤 半平 ・鹿野 介五郎 ・浦野 左門 ・福田 久次郎 それから善導寺の番僧である ・伝浦 ・林覚 ・林清 などでした。 今朝まで岩櫃城には斎藤家に味方する兵が2000を超えたというのに、その日の午後二時ごろには僅かに200程まで減っていたのでした。 #
by sanada_life
| 2010-04-02 20:46
| 加沢記
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この時、斎藤 一岩斎入道 憲広は
・山遠 岡与 五左衛門 ・川合 善十郎 ・一場 右京 ・上白井の入道 ・獅子戸の入道 ・湯本 左京之介 ・湯本 金蔵 ・高橋 一府 入道 などの郎党達に 「斎藤 弥三郎はどこにいる。海野 長門守兄弟が裏切ったぞ。海野 長門守兄弟は郎党共々討ち取ってしまえ。」 と下知を飛ばしていました。 しかし全員に斎藤 弥三郎の息がかかっておりましたので斎藤 一岩斎入道 憲広の命令を聞く人間は誰もいませんでした。 動こうとしない郎党達に斎藤 一岩斎入道 憲広が疑問を抱くよりも早く、誰かが采配を振りかざし、めいめいがうなるような大声をあげて斎藤親子へと襲いかかりました。 #
by sanada_life
| 2010-03-28 21:38
| 加沢記
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それを聞いた 角田 新右衛門の喜びは限りなく、早速岩櫃城内へ立ち返り斎藤 弥三郎に真田 昌幸とのやり取りを詳しく報告しさらに海野 長門守兄弟とも示し合わせました。
こうして永禄8年10月13日の夜中過ぎに斎藤 一岩斎入道 憲広が住居として使っていた岩櫃城主殿に火がかけられました。 主殿の中は女房達を始めとして全員が大混乱に陥りました。そこへ岩櫃城の大手門(正面)・搦め手門(裏門)両方から一度に敵の兵が押し寄せ鬨の声をあげましたので、城に詰めていた斎藤家の家臣達は海野 長門守兄弟と共に斎藤家を裏切り真田 幸隆公ひきいる武田家へと寝返ったのでした。 それより少し前に斎藤 弥三郎は岩櫃城・天狗丸へ行き、そこで生活していた人質達を連れだし護衛をつけて善導寺と避難させました。 そして自分は岩櫃城の大手門(正門)に向かい木戸を開いて武田家の軍勢を招き入れたのでした。 先陣は ・矢沢 ・鎌原 ・湯本 ・西窪 ・横谷 ・小草野 新左衛門尉 などの兵が一丸となって二の門まで押し寄せたのでした。 まず鎌原 宮内少輔が郎党の黒岩と共に木戸を乗り越えて城内へ押し入りました。 #
by sanada_life
| 2010-03-15 18:19
| 加沢記
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