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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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永禄9年(1566年)『海野 長門守 幸光』と弟の『海野 能登守 輝幸』は信濃にて『真田 一徳斎 幸隆』の元で介抱されていました。
そのころ『武田 信玄』公はお考えになられていました。 「去年、13代将軍『足利 輝幸』公が三好達の手にかかって殺されたのは諸国の武士がそれぞれに立ち上がりそこかしこで戦を起こしている乱れた世だからだ。このまま岩櫃城に『真田 一徳斎 幸隆』を置いておいては信州の押さえもおぼつかないだろう。」 そこで『武田 信玄』公は真田親子を召しだし 「吾妻には誰を置くべきだと思うか?」 とお尋ねになりました。 『真田 一徳斎 幸隆』公はかしこまって答えました。 「昨年斉藤家を御誅罰なさった時に武田家へ忠信申し上げた『海野 長門守』兄弟がふさわしいと思われます。」 信玄公は 「どのようにでもやってみてくれ。」 とおっしゃって『海野 長門守 幸光』と「海野 能登守 輝幸』を吾妻郡代にしました。 吾妻の地侍の中で ・『浦野』 ・『植栗』 ・『湯本』 ・『鎌原』 ・『西窪』 ・『横谷』 の六人を真田家の被官としました。その他の ・『富沢』 ・『唐沢』 ・『蟻川』 ・『塩谷』 ・『山名』 ・『桑原』 ・『鹿野(狩野)』 ・『上原』 ・『一場』 ・『高橋』 ・『小渕』 ・『中沢』 ・『田中』 ・『伊能(いよく)』 ・『茂手木』 ・『荒牧』 ・『川野』 ・『田村』 ・『二ノ宮』 ・『割田』 ・『高山』 ・『町田』 ・『青柳』 ・『豊田』 ・『中村』 ・『井上』 ・『川合』 ・『佐藤』 ・『山遠岡』 ・『蜂須賀』 ・『福田』 ・『片山』 ・『赤沢』 ・『神保』 ・『木部』 その他70余騎を海野兄弟の被官としました。 #
by sanada_life
| 2011-11-23 14:17
| 加沢記
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翌年(永禄9年)に新原稿から嶽山合戦で討ち死にした人々の家族へ御感状と領地安堵の御證文が下されました。
「 信玄公の判子 父<西窪 冶部>が嶽山で戦死するほど(武田家へ)忠信を持って下さった事に感動いたしました。ですので知行などの事は今まで通り間違いなく武田家に相談してください。 永禄九丙辰年 三月晦日 西窪 蔵千世殿 」 「 信玄公の判子 父<唐沢 杢之助>が嶽山の一の木戸口で討ち死にした(武田家への)忠節に感動いたしました。ですので知行のことは今まで通り間違いなく武田家に相談してください。 永禄九丙辰年 三月晦日 唐沢 お猿殿 (後の唐沢 玄蕃) 」 <蜂須賀 伊賀>も討ち死にしたので息子の<蜂須賀 舎人>へも同じような證文が下されました。 また、生き残った吾妻衆達にも御感状と領地安堵の御證文が下されました。 「 去年11月、嶽山の一の木戸口あたりにおいて強敵<早川 源蔵>を討ち取り、其の身も数箇所の傷を追いながら素晴らしい勝負をしたと真田から報告を受けました。 比類無き武功にございます。 恩賞として羽尾領の内から林村の中の20貫文を加増いたします。 なお戦による重恩を加える予定です。 永禄九丙辰年 三月晦日 信玄 判子 湯本 善太夫殿 」 <富沢 六郎三郎>にも同じような御感状が下されました。<富沢 六郎三郎>は<富沢 十兵衛」の父です。 #
by sanada_life
| 2011-09-10 23:09
| 加沢記
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この嶽山城という城は岩石がそびえ立ちあまりにけわしい城であり、平家物語で有名な倶利伽羅ヶ城と言えども適わぬほど攻め憎い城でありましたが、斉藤兄弟は嶽山城が難攻不落であることに頼りすぎて前日に兵士を残らず城に入れ籠城したために滅びる事になったのでした。
<斉藤 城虎丸>は嶽山城本丸の北にある天狗の峯に駆け上りましたが、武田軍が隙間無く襲い掛かってきましたので、天狗岩から飛び降り、そのまま落ちてついに岩石に当たり微塵になって亡くなりました。 斉藤家にお使えしていた女房達はそこかしこの岩まで降りた後にそこから飛び降りて下の岩場に重なって落ちていきました。そうして本丸には誰も残りませんでした。 この時の骸骨は今も残っております(現在、骨穴と呼ばれる場所に白い薄い石が多数残っていますが骨かどうかはわかりません。また、数年前から骨穴へ通じる登山道は消されています。) こうして無人となった嶽山城には<池田 佐渡守><川原 左京><鎌原><湯本>を留め置き、戦の顛末を甲府へ報告した後に<真田 一徳斎 幸隆>公は岩櫃城にお住みになられました。 #
by sanada_life
| 2011-08-19 17:16
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斉藤兄弟も嶽山城を出て600騎余りをつれて美野原の高台へ押し寄せました。
戦闘がはじまってすぐに<真田 一徳斎 幸隆>公の下から<西窪 冶部 左衛門>が駆け出し、斉藤家の先陣である<秋間 備前>と<大野 新三>と戦いました。 <西窪 冶部 左衛門>が<秋間 備前>を討ち取り押さえつけて首を欠き切ると、斉藤家の<早川 源蔵>が100人余りを引き連れて<西窪 冶部 左衛門>を取り囲み、ついに<西窪 冶部 左衛門>は討ち取られました。 <真田 一徳斎 幸隆>公の下でその様子を見ていた<蜂須賀 伊賀>が走り出し<早川 源蔵>へと討ちかかりましたが返り討ちにあいました。 戦場の様子をご覧になっていた<真田 一徳斎 幸隆>公が自ら鑓を提げ斉藤兄弟を目にひたと据え駆け出しましたので斉藤家の軍は驚いて前後もわからないほどにうろたえました。 その騎を逃さず武田軍の ・<春原> ・<川原> ・<矢野> ・<丸山> ・<山越> ・<鎌原> ・<湯本> 達が抜き連なって大声を上げながら攻めかかりました。 昼から午後2時までの間に七度の合戦があり、斉藤家の家臣達を200人ほど討ち取りましたがお味方も150人ほど討ち取られました。 日も傾き夕方になったころ、斉藤軍がほら貝を吹いて嶽山城へと戻っていきました。 武田軍の人々は明日になってから合戦を再開するのでは遅いと言い、夜中から嶽山を取り巻き登山口に竹束を立てて城攻めの口上もたてずに大声でわめいて攻めかかりました。 一の木戸の所で<唐沢 杢之助>が討ち死にしました。 <湯本 善太夫>がその相手(吾妻郡の伝説だと<早川 源蔵>となっています)を討ち取りましたので<斉藤 越前太郎 憲宗>は 「わが夢は叶わなかった。これまでだ。」 と腹を十文字に掻き切りました。御年38歳でした。 #
by sanada_life
| 2011-08-13 10:52
| 加沢記
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それから少しして、<池田 佐渡守 重安>父子は嶽山城を引き払い岩櫃城へと移ってきたので嶽山城の斉藤兄弟の力は激減しました。
そこで白井・沼田から援軍を呼び無理やりにでも合戦を起こそうと思い立ちました。 斉藤兄弟の企みを知った<真田 一徳斎 幸隆>公は即座に諸将に下知を出し、自らは黒糸縅の鎧と鍬形を打った兜を身につけ三尺五寸(約110センチ)の太刀を穿き十文字の槍をさげ、荒井黒と名付けた名馬に白覆輪の鞍を置き、己を先駆けとして300騎9の兵を引き連れて美濃原の向こうにある仙蔵の城へと駆け上がり軍を指揮したのでした。 このとき、先陣を賜ったのは ・鎌原 ・湯本 ・西窪 ・横谷 ・植栗 ・大戸 ・浦野 ・池田 ・富沢 ・蜂須賀 の面々であり、城へと駆け上がる<真田 一徳斎 幸隆>公の前後を囲みお守りしたのは ・丸山 ・春原 ・川原 ・矢野 ・<小草野 新三郎> ・上原 ・座村野 ・宮下 ・山越 ・深井 ・原 ・石田 ・高井 ・塩野 ・川合 ・山岡 ・富沢 ・一場 ・高山 ・桑原 ・中沢 などの面々でした。 #
by sanada_life
| 2011-07-30 15:49
| 加沢記
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