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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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戦闘は天文10年12月下旬に行われました。
(編集者の注釈 別の史料には天文10年5月13日・14日となっている。14日の大雨の中、 海野幸義は戦死した。) 私は5月説を支持します。なぜなら、旧暦の12月・1月に鳥居峠を越えて上野国に入るのは雪で無理だと思うからです。 幸義さんの本体が引いていく様子を見た村上軍の「高梨子信濃守」は貝を吹き合図を送ります。村上軍の兵士は鯨波(鬨の声)を上げ、幸義の本体に襲い掛かります。 作戦通りに幸義さんは軍を引きながら村上軍先陣の「高梨子信濃守」と戦います。 高梨子の隊の被害甚だしく、山の上へ一旦ひきます。そこへ後陣の「室賀八代」が新手を入れ替えて責めてきました。 室賀の隊と戦ううちに幸義さんの馬が堰(川水をせき止めた場所)の溝へと落ちてしまいます。馬は前膝を突いて倒れます。後ろに続いていた兵の馬達も勢いが止まらず次々と落ちてきます。 幸義さんが起き上がろうとしても、大勢の敵兵が槍衾を組み、上から刺してきます。 槍はわきの下から胸まで貫きました。 「これはどうにもならぬ。」 幸義さんは自分の槍を投げ捨て太刀を抜き、室賀の家臣「芋川さん」を真っ二つにかち割ります。その様に敵勢はしり込み、幸義さんから遠ざかりました。 そのとき、味方の海野の兵が駆けつけます。大勢の若者がドッと室賀の軍に討ちかかり幸義さんを守ります。そこへ「海野棟綱」の3男「矢沢右馬介(後の矢沢頼綱)」もやってきます。 矢沢頼綱は 「目の前で兄を討たせては末代までの恥である!」 と馬から飛び降り、海野家に代々伝わる名槍「小続松(こたいまつ)」を振りかざし、敵13騎を討ち取ります。 矢沢頼綱の活躍であたりの敵は退きましたが、幸義さんはお亡くなりになられました。 あたりから板戸を取り寄せ、「春原曽右衛門」「河原惣兵衛」が幸義さんの遺体を担いで戦場を離脱していきました。 そのころ、「祢津 元直」さんは作戦通りに山陰に潜んでいましたが、本隊が敗れたのを見て山を降り、「真田幸隆」の別働隊と合流します。 祢津さんは 「幸義公が討ち死にと聞きました。この上は生き残っては後代の名折れです。」 と祢津家に伝わる「橋返り」の太刀を抜きます。 幸隆さんも(棟綱からもらった3尺5寸の)太刀を抜き、隊を一文字にして村上の本隊へ討ち掛かりますが大勢の兵に阻まれます。戦いは夕方まで続いて両軍共に引いて終わりました。 海野の軍は一千騎の兵が討死にし、残りも大半が傷を負いました。 加沢記ではここで文章が切れています。原稿が紛失したのか、書かれなかったのか、わかりません。次のページからは幸隆さんが関東官領家と対面する話となっています。 編集者の脚注によると、この後、幸隆と棟綱は鳥居峠を越えて羽尾氏を頼り、後に箕輪城の長野業正の食客になったとあります。 では、今日はここまでで。
by sanada_life
| 2004-10-18 18:25
| 加沢記
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