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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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戦国時代に入り、あちこちで合戦が起こるようになりました。
信濃で勢力をもっていたのは 村上 義清 木曽 義政(武田信玄に属す) 諏訪 頼重 小笠原 長棟 の4人で、滋野の一族(海野・真田・祢津・望月・常田・矢沢など)は村上家に属し、人質を渡していました。 が、村上家に仕えていた祢津家の遠い遠い親戚「大塚 掃部介 幸実」という男が諏訪頼重に寝返ろうとしました。このことを知った村上義清は「滋野一族を討つべし」と戦の準備を始めます。 それを知った「祢津 覚直」は滋野一族の総領である「海野 幸象」に相談。 編集者の注釈。このときの祢津家は 覚直ではなくその子「元直」である 「海野 幸象」は滋野一族を集めて会合を開き村上義清の本拠地である「葛尾」(砥石城のある所)へ攻め込むことにしました。 本隊は海野幸義と祢津元直の2つにわけ、先陣は真田幸隆、矢沢頼綱、鞠子籐八郎、鎌原美作と決まりました。 村上義清は砥石城からでて、千曲川のほとりの「榊」という場所に鶴翼(かくよく)の陣を敷きました。 村上勢5000騎に対して滋野勢は2000旗の戦いです。 上田市の地図を元に想像するとこんな感じだったのではないでしょうか。緑の部分が山です。(画像をクリックすると字がはっきり読めます) 作戦を真田幸隆が海野幸義へ語ります。意訳してみました。 「こちらは少数、敵は多勢ですので、こちらは敵の大軍にしりごんで逃げようとしていると見せかけましょう。敵が進んできたら必ず備えを崩して押し返し、山陰に隠した祢津の軍に後ろを襲わせて挟み撃ちにします。 そのときに私は森の木陰をとおり、村上義清本隊へ討ちかかり勝負を決したいと思います。」 幸隆さん。あなたはヤン・ウェンリー(田中芳樹の書いた長編小説「銀河英雄伝説」の登場人物。ものすごい軍師)ですか・・・。かっこいいです。 さあ、戦は作戦通りにいくのか。 長くなりましたので続きはまた明日書きます。
by sanada_life
| 2004-10-13 13:55
| 加沢記
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