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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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沼田城の城主だった沼田一族の紹介です。
沼田氏は平安時代から続く名家で、発祥伝説を持っています。「沼田氏は蛇神の末裔である。その証拠に沼田家の人間には脇の下にウロコが3枚ある」そうな。 こういう伝説の類、大好きです。 永享11年(1439)に鎌倉公方「足利持氏」が権威を失ってからというもの都も田舎も静まらず、特に関東はおおいに乱れていたるところで合戦が起こりました。 沼田城主である沼田家は「沼田 勘解由左衛門尉 顕泰」の代に現在の群馬県利根郡・勢多郡と吾妻郡の中山・尻高(しったか)のあたりまでを領地とし、地侍たちを幕下におきました。 「沼田 顕泰」は関東管領「上杉 民部大輔 藤原 顕定」に従い平井城(現在の群馬県藤岡市平井)に出仕しました。 「上杉 顕定」からお名前の一字を頂き「沼田 顕泰」と名乗りました。「沼田 顕泰」の妻は「長野 業政」の娘でした。二人の間にはたくさんの子供がいました。 長男の「沼田 上野介」は室町幕府将軍「足利 義輝」の近臣となり、近江に領地をいただき、京都に住みました。 そこで次男の「沼田 三郎」を跡継ぎとし、関東管領家に申し出て「上杉 憲政」から一字を頂き「沼田 憲泰」と名乗らせました。 「沼田 憲泰」は18歳の時に、関東管領家の老臣であり白井城主である「長尾 左衛門 景春」の婿となりました。が、程なく亡くなりました。 「沼田 三郎」には次のような伝説があります。 三郎が7歳の時のことです。母と老神温泉(群馬県利根郡利根村に古くからある温泉)へ 行った折に、三郎は湯小屋の上に墨絵で馬を描いて遊びました。すると、墨絵の馬が絵を 抜け出し近所の畑を食い荒らす事件が起こりました。困った村人が徳の高いお坊様に頼み 込み絵に紐を書き足して馬をつなぎ止めた所、二度と馬が絵を抜け出すことは無かったそ うです。 老神温泉のある赤城山の神様は「蛇」だそうです(話によっては百足という説もあります)。蛇神の末裔の遊びに赤城の神様が力を貸したのかもしれませんね。 三男の「沼田 六郎」は「沼田 顕泰」の妹の家へ養子に行きました。 四男の「沼田 弥七郎」は上杉謙信の重心である前橋城主「北条(きたじょう)弥五郎」の婿となりました。その後、隠居した父「沼田 顕泰」から倉内城(沼田城の旧名)を譲られて居住しました。 「沼田 弥七郎」には妹が1人おりましたが、「長野 業政」の仲立ちで安中城主「安中越前守」へと嫁ぎました。 五男の「沼田 平八郎」は父「沼田 顕泰」が入道して「沼田 万鬼斎」と名乗るようになってから領地を三分の一もらい、父子一緒に下川場の郷へお屋敷を構えて隠居しました。 沼田家は最初は関東管領家に属していましたが、後に越後の上杉謙信に属します。岩櫃城の斉藤家も上杉謙信に属します。そこを攻めるのが武田に属する真田家。武田信玄VS上杉謙信の戦いは第四回川中島の後、上州を舞台に間接的に繰り広げられるのでした。 次は「鎌原(かんばら)氏、武田に下る」です。いよいよ武田の北上州侵攻が始まります。 ・・・長野県の民話や伝説を読んでみたいです。真田・武田の面白い伝説がありそう。
by sanada_life
| 2004-12-07 21:51
| 加沢記
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