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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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唐沢杢之助は戦の最中に他の人を出し抜いて<真田 昌幸>公へ忠信したので本領17貫文を安堵されただけでは無く他の場所も所々知行として賜りました。
さて、<鎌原 宮内少輔>と<湯本 善太夫>の二人は内応の誘いを受けて寝返った<斎藤 弥三郎>の事を隠密に処理して甲府へは報告しませんでした。 しかし、<真田 信綱>と<室賀 入道>がこの話を甲府へと報告しましたので、信玄公は一枚の紙に御感状を書き記しました。 「斎藤越前入道から離反し武田家へと寝返るという企てについて聴きました。貴方がたの忠節は岩櫃城を乗っ取る局面でまことに比類無き素晴らしい物です。近い内に私自身が岩櫃城へ赴き<斎藤 弥三郎>が武田家に寝返った事は私の命令であったと公表しましょう。安心してください。細かい事などは<室賀 入道>に従って甲府へと報告してください。 永禄6年 壬亥 12月12日 信玄 (在判) 今度の戦で忠節を尽くしてくれた皆へ 」 信玄公はこの御感状を<神原 宮内少輔>へと下されました。 #
by sanada_life
| 2011-01-01 20:37
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「斎藤 越前守 (藤原)憲広 (法名 一岩斎入道)」とその嫡子「斎藤 越前 太郎 憲宗」と次男「斎藤 四郎太夫 憲春」を追討したこの戦の経過報告を「真田 幸隆」公が自ら御手書きになることになりました。
そこで「真田 幸隆」公御父子と ・「三枝松 土佐守」 ・「室賀 山城 入道」 ・「祢津 宮内太夫」 ・「矢沢 薩摩守」 達が会合なさり、その一つ一つを記されました。 この御報告は会合に連なっていた「祢津 潜竜院」と申す山伏を召して甲府へと注進いたしました。 御報告を受けた信玄公はたいそう御喜びになり吾妻の守護には「真田 一徳斎入道」を、岩櫃城城代には「三枝松 土佐守」を置く事になさいました。 吾妻の土豪である ・「鎌原 宮内少輔」 ・「湯本 善太夫」 斎藤家の一門であった ・「斎藤 弥三郎」 ・「植栗 主計」 ・「浦野 中務太輔」 ・「富沢 但馬」 ・「神保」 ・「唐沢 杢之助」 ・「佐藤」 ・「蟻川」 ・「塩谷」 ・「川合」 ・「一場」 ・「蜂須賀」 ・「伊与久」 ・「割田」 ・「加茂」 ・「渡(わたり 亘)」 ・「鹿野」 ・「荒牧」 ・「割田」 ・「二宮」 ・「桑原」 などの者達は真田家へお預けになり、今までの本領を安堵してそれぞれ岩下の郷へと御戻しになりました。 #
by sanada_life
| 2010-10-26 16:00
| 加沢記
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永禄六年11月の事でした。たくさんの雪が深く厚く降り積もり、人も馬も通る事が出来なくなったので羽尾入道は安心して月毎に順番で館にお勤めに来る者達を皆それぞれの領地へと帰しました。
そのため羽尾入道の館は手勢が50~60人ほどしかいない状態になりました。 羽尾入道の隙を伺っていた鎌原氏は 「今、羽尾を討つには天候が悪すぎる。」 と言って甘利・祢津の両家から手勢の侍を借りて300人ほど人を集めました。 鎌原ひきいる兵が11月27日の真夜中過ぎに羽尾入道の館へ押し寄せ、鬨の声ををどっとあげると羽尾入道は驚き騒いで取る物も取り敢えずに妻女を連れて徒歩で館から逃げ落ち延びて行ったのでした。 須賀峠まで逃げてくると、雪は更に深く吹雪もより激しくなり、手先も凍傷にかかり、それでも何とか命を落とすことなく大戸氏の館へ落ちる事ができたのでした。 羽尾入道はこの年の10月に武田家に落とされた岩櫃城へいつか戻りたいと心に誓ったのですが、以前は自分の味方をしていた横谷氏も今は鎌原に味方しているので今は無理だと言っていたと聞き及んでいます。 #
by sanada_life
| 2010-10-12 23:27
| 加沢記
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斎藤 越前守 憲広入道はさらに語りました。
「『斎藤』とは寿永の頃(1182~1183)に源平の両家の闘いで活躍した斎藤 別当 実盛の名を朝廷より賜わったのだ。我も元は越前の者であったが此の度は北国へと落ちていく。何を言うかいもないありさまだ。」 そう言って両目に涙を浮かべた後に末行の刀を山田与惣兵衛に形見として与えました。 その後、斎藤 越前守 憲広入道は妻有(新潟県中魚沼郡十日町)の庄へと落ちて行きました。 #
by sanada_life
| 2010-08-31 14:30
| 加沢記
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そこへ山田 与惣兵衛はようやく追いつく事が出来たのでした。
山田 与惣兵衛はその場でこのように誓いました。 「いつまでも、幾つになっても御供申し上げます。」 誓いを聞いて斎藤 越前守 憲広入道は涙をハラハラと流しました。 「数代に渡り恩賞を授けた一門の人間や家子郎党なども心変わりしたという時に、そなたなどは外様でありそれほど恩賞も受けなかったであろうに此処までの厚意を示してくれるとは(感動のあまり)言葉もない。時流が変われば再び相まみえる事もあろう。 ところで嶽山城に残してきてしまった城子丸まどうなったであろう。これから先につらいめに逢うであろうあの子の行く末をどうか頼む。」 そう言って山田与惣兵衛に盃を与えたのでした。 #
by sanada_life
| 2010-07-11 22:30
| 加沢記
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