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12月5日
幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 その他のジャンル
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加沢記に入る前に幸隆公の年表の一部を。
天文15 (1546) 11月 もと海野家の家老、須野原(春原)若狭・同惣左衛門兄弟を村 上義清の元へ送り、真田の城を取る手引きをすると義清の兵5百人を自城に引き入れ、悉く討取る 幸隆34歳 天文19 (1550) 砥石崩れ 幸隆38歳 天文20 (1551) 幸隆、戸石城を落とす。 幸隆39歳 天文22 (1553) 武田氏の攻撃により、村上義清の本城・葛尾城自落。義清、越後に敗走し、長尾景虎に救援を求める。 幸隆41歳 タイトルからてっきり砥石城攻略の話かとおもっていたのですが・・・。何度も読んで現代語に訳してみたらどうも葛尾城を攻めた時の話のようです。「小説 真田幸隆」ではこの話が砥石城攻略にもなっているのですが・・・。他の史料ではどうなっているのでしょうか? 幸隆公は、兄である幸義公の供養のために一度かたきを討ちたいと常々心意気を燃やしていました。武田に属して本領に帰れましたが、まだ村上義清は安穏と生きています。このことは 「無念と云えどもなお余りある。」 とおっしゃって家臣の「小草野若狭守」と「春原惣左衛門」の兄弟を呼びました。この兄弟は代々仕えてきた老臣で武勇も智謀も万民に勝るといわれていました。 幸隆公が兄弟を読んでおっしゃるには 「そなたらの先祖はもともと武蔵国(今の埼玉県)の宣化天皇の末孫『丹治』の出である。世の中の浮き沈みによって関東から当国(信濃)へやってきて、私の先祖に仕えてくれた代々の臣である。二人とも知っての通り村上義清を討って兄『幸義』殿の供養としたいと思い何度も合戦を行ってきた。しかし、村上義清は大名であるので簡単に討つことが出来ずに年月を送ってしまった。とても悔しい。どうか、そなたら兄弟の命を兄『幸義』殿への供養に恵んではくれないか。」 兄弟は畏まって答えました。 「我等は不肖の家来といえども代々の主君の仇です。その上、今の主君である幸隆公のおおせをどうすれば背くことができるでしょう。」 幸隆公は身構えずに喜びました。 「そうと決まれば手立てを討って(村上義清を)討ち取ることが出来る。」 幸隆公の策とは・・・。 春原兄弟はその後、奉公を怠り、主家の法度を破り、軍法を犯し、敵地へ内通し、その悪行は近くの国々にまで知れ渡りました。そこで幸隆公はお怒りになり、春原兄弟の知行を没収して追放しました。兄弟は浪人の身となりまず関東そこかしこの大名家に奉公してはまた浪人になることを繰り返しました。その後、信州に戻り善光寺や川中島あたりを流浪するうちに村上義清に召抱えられることになりました。 村上義清も最初は兄弟を警戒していました。が、元真田家臣であれば手なずければ真田の手の内も知ることが出来ます。それに兄弟が骨身を惜しまず働いたのでだんだんと信用を増し、やがて村上家において1,2を争う「忠孝の人」として与力を預けるまでの身分まで出世させました。 春原兄弟は「仕込みはこれで済んだ。」と思いながら、なおも村上に奉公を尽くしました。 ある日、村上義清は春原兄弟を内密に呼んでいいました。 「その方らの先の主君、真田を討って安心したいと思う。そなたら兄弟の謀略でもって簡単に真田を討てないか考えてくれないか。」 春原兄弟は(村上め、かかったな)と思いながら返答に困った顔をしました。春原惣左衛門が言うには 「私は砥石山の生まれです。そのために多くの旧友が砥石に居ります。真田の家に仕えている旧友達ならば書状も通るでしょうし、白山権現へ参詣しますと言ってこっそりと砥石城の中へ内通して謀をまわすことも出来ましょう。」 村上義清はこの案に賛成したようです。明日になるのも待ちきれないと春原惣左衛門は一人で小県郡へと行きました。かねてから打ち合わせてあったことなので、夜中に「丸山土佐」「川原」「矢野」などの真田家家臣に連絡すると、幸隆公は喜び春原惣左衛門と密かに対面しました。 春原惣左衛門は夜中に村上の拠点である葛尾へ帰ってきました。春原惣左衛門は村上義清に伝えました。 「白山権現へ参詣し城中への通路を伺っていると、神のお導きでしょうか。旧友の『川原惣兵衛』が参詣にやってきました。川原の先祖は私の先祖と一緒に信州へやってきました。私の代々の旧友です。拝殿にて行き会い、互いに懐かしいと打ち解けてこれまでのことを語り合いました。『川原惣兵衛』の言うことには、 『自分も代々真田家に仕えてきたが、小さなことで一族全てが追放させられた。真田家で我等だけが危ういのではない。丸山、矢野、深井、宮下などの譜代の面々も今日限りの奉公となろう。明日には浪人となるやもしれん。そうなれば村上殿を頼りたいのだが、そなた、取次ぎを頼まれてくれないか。』 とのこと。これは良い機会だと思い 『村上義清殿は普段から「幕下に属してくれるのならば望みの所領を与えてやる。」とおっしゃっているぞ。』 と吹き込みました。すると川原惣兵衛はのって来ました。 『我々も幸隆に怨みがある。人数を集めて来ていただければ、夜中に城中へ引き入れて幸隆をやすやすと討ち取れるぞ。』 と、手に取るように言ってきました。」 これを聞いて義清は喜びました。さっそく良い日を選んで春原の娘を人質に取り、700騎の勇兵を「小草野若狭守」と「春原惣左衛門」の兄弟に案内させて真田の館へ攻め寄りました。 兼ねてからの打ち合わせどおりに夜中に砥石城の木戸を開けて忍び入る村上の兵700騎。二の丸まで進んだ時、春原惣左衛門がほら貝を吹きたてました。とたんに前後の門が閉まり、物陰から弓矢や鉄砲が撃たれました。村上の兵は500騎以上討ち取られ、午前10時に145騎が逃げ延びました。 知らせを受けた村上義清は 「後悔しないことなどない。」 といい、春原兄弟の人質を牛割りにしました。 さすがに大名の村上でも、最高の兵を700騎選んだ内500騎も討ち取られ、もはや叶うことは難しいと思ったのでしょう。 城に火をかけ、熊坂峠を経て越後国へ落ち延びました。春日山へ着いた村上義清は、残った領地を上杉謙信に渡し、本領を取り戻すことを願いました。 幸隆公の武略と春原兄弟の働きが世に類い無き物であったため、武田晴信公は大変お喜びになり、幸隆公へ御感状をくだされました。 また、春原兄弟にも300貫文の知行を与え、直参に取り立てました。 海野幸義公が亡くなってから、海野家は「海野 太郎」という人が継いでいましたが、信玄公の誅罰を受けて絶えました。 しかし、名家であったため、晴信公の次男である「聖堂様」に海野家を継がせて海野家の侍共はそのままにしておきした。 春原兄弟の兄である「小草野若狭守」は海野家の家老に取り立てられました。 長かった・・・。現代語訳が間違っていたらごめんなさい。ってこの話、天文15年の話ではないですか!村上義清が葛尾城を自分で焼くまで7年もタイムラグがあるぞ!加沢記は古老の聞き書きで勘違いが多いって聞いてましたけど・・・。すごい勘違いですね。・・・なんだかどっと疲れました。
by sanada_life
| 2004-10-30 00:33
| 加沢記
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