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12月5日 幸隆さんは黒が好きだったのでしょうか? 馬の名前は「荒井黒」。黒糸縅の鎧を着て嶽山城を攻めに来ています。 12月3日 外部リンクの貼り方がわかりました。岩櫃城の写真と地図をUPしました。 おすすめキーワード(PR)
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また信玄公は、<海野 能登守 輝幸>の長男<海野 中務太輔 幸貞>が<矢沢 薩摩守 頼綱>の娘を娶り矢沢家の婿となっていましたので同じように
・<大戸 真楽斎>の嫡男<大戸 太郎> ・<鎌原 宮内少輔 幸重>の嫡男<鎌原 筑前守 重澄> の二人を<海野 長門守 幸光>の婿になるように申し付けました。 海野兄弟は岩櫃城に住んで吾妻郡の守護を勤めましたが、<長尾 景虎(後の上杉謙信)>が越後の地侍達を従えて三国峠を越え、<北条 氏康>を戦争を繰り返しておりましたので信玄公は吾妻の状態を不安に思うようになりました。 そこで<武藤 喜兵衛尉 昌幸>公を呼び出しまして、一年に一度吾妻へと出張させる事にいたしました。 この年(永禄9年 1566年)に<真田 源三郎 信幸>公が信州小県郡の砥石城 旗山(現 上田市外旗山)にて御誕生なされました。御母は正親町大納言の御娘と聞き及んでおります。 <真田 源三郎 信幸>公の守役には川原氏・丸山氏が付きました。
永禄9年(1566年)『海野 長門守 幸光』と弟の『海野 能登守 輝幸』は信濃にて『真田 一徳斎 幸隆』の元で介抱されていました。
そのころ『武田 信玄』公はお考えになられていました。 「去年、13代将軍『足利 輝幸』公が三好達の手にかかって殺されたのは諸国の武士がそれぞれに立ち上がりそこかしこで戦を起こしている乱れた世だからだ。このまま岩櫃城に『真田 一徳斎 幸隆』を置いておいては信州の押さえもおぼつかないだろう。」 そこで『武田 信玄』公は真田親子を召しだし 「吾妻には誰を置くべきだと思うか?」 とお尋ねになりました。 『真田 一徳斎 幸隆』公はかしこまって答えました。 「昨年斉藤家を御誅罰なさった時に武田家へ忠信申し上げた『海野 長門守』兄弟がふさわしいと思われます。」 信玄公は 「どのようにでもやってみてくれ。」 とおっしゃって『海野 長門守 幸光』と「海野 能登守 輝幸』を吾妻郡代にしました。 吾妻の地侍の中で ・『浦野』 ・『植栗』 ・『湯本』 ・『鎌原』 ・『西窪』 ・『横谷』 の六人を真田家の被官としました。その他の ・『富沢』 ・『唐沢』 ・『蟻川』 ・『塩谷』 ・『山名』 ・『桑原』 ・『鹿野(狩野)』 ・『上原』 ・『一場』 ・『高橋』 ・『小渕』 ・『中沢』 ・『田中』 ・『伊能(いよく)』 ・『茂手木』 ・『荒牧』 ・『川野』 ・『田村』 ・『二ノ宮』 ・『割田』 ・『高山』 ・『町田』 ・『青柳』 ・『豊田』 ・『中村』 ・『井上』 ・『川合』 ・『佐藤』 ・『山遠岡』 ・『蜂須賀』 ・『福田』 ・『片山』 ・『赤沢』 ・『神保』 ・『木部』 その他70余騎を海野兄弟の被官としました。
翌年(永禄9年)に新原稿から嶽山合戦で討ち死にした人々の家族へ御感状と領地安堵の御證文が下されました。
「 信玄公の判子 父<西窪 冶部>が嶽山で戦死するほど(武田家へ)忠信を持って下さった事に感動いたしました。ですので知行などの事は今まで通り間違いなく武田家に相談してください。 永禄九丙辰年 三月晦日 西窪 蔵千世殿 」 「 信玄公の判子 父<唐沢 杢之助>が嶽山の一の木戸口で討ち死にした(武田家への)忠節に感動いたしました。ですので知行のことは今まで通り間違いなく武田家に相談してください。 永禄九丙辰年 三月晦日 唐沢 お猿殿 (後の唐沢 玄蕃) 」 <蜂須賀 伊賀>も討ち死にしたので息子の<蜂須賀 舎人>へも同じような證文が下されました。 また、生き残った吾妻衆達にも御感状と領地安堵の御證文が下されました。 「 去年11月、嶽山の一の木戸口あたりにおいて強敵<早川 源蔵>を討ち取り、其の身も数箇所の傷を追いながら素晴らしい勝負をしたと真田から報告を受けました。 比類無き武功にございます。 恩賞として羽尾領の内から林村の中の20貫文を加増いたします。 なお戦による重恩を加える予定です。 永禄九丙辰年 三月晦日 信玄 判子 湯本 善太夫殿 」 <富沢 六郎三郎>にも同じような御感状が下されました。<富沢 六郎三郎>は<富沢 十兵衛」の父です。
この嶽山城という城は岩石がそびえ立ちあまりにけわしい城であり、平家物語で有名な倶利伽羅ヶ城と言えども適わぬほど攻め憎い城でありましたが、斉藤兄弟は嶽山城が難攻不落であることに頼りすぎて前日に兵士を残らず城に入れ籠城したために滅びる事になったのでした。
<斉藤 城虎丸>は嶽山城本丸の北にある天狗の峯に駆け上りましたが、武田軍が隙間無く襲い掛かってきましたので、天狗岩から飛び降り、そのまま落ちてついに岩石に当たり微塵になって亡くなりました。 斉藤家にお使えしていた女房達はそこかしこの岩まで降りた後にそこから飛び降りて下の岩場に重なって落ちていきました。そうして本丸には誰も残りませんでした。 この時の骸骨は今も残っております(現在、骨穴と呼ばれる場所に白い薄い石が多数残っていますが骨かどうかはわかりません。また、数年前から骨穴へ通じる登山道は消されています。) こうして無人となった嶽山城には<池田 佐渡守><川原 左京><鎌原><湯本>を留め置き、戦の顛末を甲府へ報告した後に<真田 一徳斎 幸隆>公は岩櫃城にお住みになられました。
斉藤兄弟も嶽山城を出て600騎余りをつれて美野原の高台へ押し寄せました。
戦闘がはじまってすぐに<真田 一徳斎 幸隆>公の下から<西窪 冶部 左衛門>が駆け出し、斉藤家の先陣である<秋間 備前>と<大野 新三>と戦いました。 <西窪 冶部 左衛門>が<秋間 備前>を討ち取り押さえつけて首を欠き切ると、斉藤家の<早川 源蔵>が100人余りを引き連れて<西窪 冶部 左衛門>を取り囲み、ついに<西窪 冶部 左衛門>は討ち取られました。 <真田 一徳斎 幸隆>公の下でその様子を見ていた<蜂須賀 伊賀>が走り出し<早川 源蔵>へと討ちかかりましたが返り討ちにあいました。 戦場の様子をご覧になっていた<真田 一徳斎 幸隆>公が自ら鑓を提げ斉藤兄弟を目にひたと据え駆け出しましたので斉藤家の軍は驚いて前後もわからないほどにうろたえました。 その騎を逃さず武田軍の ・<春原> ・<川原> ・<矢野> ・<丸山> ・<山越> ・<鎌原> ・<湯本> 達が抜き連なって大声を上げながら攻めかかりました。 昼から午後2時までの間に七度の合戦があり、斉藤家の家臣達を200人ほど討ち取りましたがお味方も150人ほど討ち取られました。 日も傾き夕方になったころ、斉藤軍がほら貝を吹いて嶽山城へと戻っていきました。 武田軍の人々は明日になってから合戦を再開するのでは遅いと言い、夜中から嶽山を取り巻き登山口に竹束を立てて城攻めの口上もたてずに大声でわめいて攻めかかりました。 一の木戸の所で<唐沢 杢之助>が討ち死にしました。 <湯本 善太夫>がその相手(吾妻郡の伝説だと<早川 源蔵>となっています)を討ち取りましたので<斉藤 越前太郎 憲宗>は 「わが夢は叶わなかった。これまでだ。」 と腹を十文字に掻き切りました。御年38歳でした。
それから少しして、<池田 佐渡守 重安>父子は嶽山城を引き払い岩櫃城へと移ってきたので嶽山城の斉藤兄弟の力は激減しました。
そこで白井・沼田から援軍を呼び無理やりにでも合戦を起こそうと思い立ちました。 斉藤兄弟の企みを知った<真田 一徳斎 幸隆>公は即座に諸将に下知を出し、自らは黒糸縅の鎧と鍬形を打った兜を身につけ三尺五寸(約110センチ)の太刀を穿き十文字の槍をさげ、荒井黒と名付けた名馬に白覆輪の鞍を置き、己を先駆けとして300騎9の兵を引き連れて美濃原の向こうにある仙蔵の城へと駆け上がり軍を指揮したのでした。 このとき、先陣を賜ったのは ・鎌原 ・湯本 ・西窪 ・横谷 ・植栗 ・大戸 ・浦野 ・池田 ・富沢 ・蜂須賀 の面々であり、城へと駆け上がる<真田 一徳斎 幸隆>公の前後を囲みお守りしたのは ・丸山 ・春原 ・川原 ・矢野 ・<小草野 新三郎> ・上原 ・座村野 ・宮下 ・山越 ・深井 ・原 ・石田 ・高井 ・塩野 ・川合 ・山岡 ・富沢 ・一場 ・高山 ・桑原 ・中沢 などの面々でした。
講和を終えてから<真田 一徳斎 幸隆>公は<池田 佐渡守 重安>を招いて仰いました。
「斉藤家の家臣や郎党など今まで恩を受けてきた面々が残らず心変わりしたというのに、貴方がた親子は今年に至るまで末子<斉藤 城虎丸>を盛り立てて来ました。これこそ武士の本分、有るべき姿です。 そうは言えど、斉藤家が武田家に反逆したことを<武田 晴信>公はとてもとても深く憤っております。このまま行けば、斉藤家への御誅罰が下されることは間違いないでしょう。 貴方は元来<楠木 正成>の御子孫の一人ではありませんか。世の慣習に従い斉藤家の下に仕えていただけにすぎません。 どうか私に力を貸して下さい。そして武田家の「忠信の臣」になってはいただけないでしょうか。 そうしていただければ、貴方の領地を末永く保障する御證文を<武田 信玄>公から頂いてまいります。」 この言葉を聞いて<池田 佐渡守 重安>は<真田 一徳斎 幸隆>公に味方することを約束しました。 この事は早速甲府へと報告され<池田 佐渡守 重安>へ次のような所領安堵の御證文が下されたのでした。 「そなたが今日に至るまで嶽山城に篭る斉藤家を立てて来た事は比べるものも無い程の忠信であり、心底感じ入りました。 この度真田から当家に忠信を預けていただけると聞き、その神妙な心がけに感動いたしました。そなたが治めていた山田郷150貫は今までどおり安堵いたしましょう。 なお、戦功によりさらなる御重恩も与えましょう。 甘利 左衛門 これを奉る 永禄8年 11月10日 池田佐渡守殿 」
岩櫃城に詰めている者達にとっては思っても見なかった事態であったため、城の中は大混乱に陥りました。しかし、<真田 幸隆>公や<真田 信綱>公、そして真田の兄弟達は武略に優れたツワモノでありましたのでこの混乱も物ともせず、城を固く守らせてから
・<富沢 但馬入道> ・<唐沢 杢之助> ・<植栗 安芸守> を嶽山城へと使いにやりました。 三人は<斉藤 越前守 太郎 憲宗>にだけ聞こえるように細々と口を開きました。 「我等が大将である<真田 一徳斎 幸隆>公からのお言葉をお伝え申し上げます。 <斉藤 太郎>殿がここ数年北国でお暮らしになっていた事は内々に<武田 晴信>公へと取り成しております。一度、太郎殿の願いを叶えて差し上げたく申し上げます。 岩櫃城に残っている元斉藤家の家臣達にも話しましたが、私は昔<村上 義清>との戦にやぶれて真田庄を失い、上州の<長野 業政>殿の下で浪人として過ごした後に真田庄へと戻りました。 この度の和議が整いましたら、私が甲州の武田家へと取り成し、<斉藤 太郎>殿を<矢沢 頼綱>殿の婿としましょう。その後に元の所領へとお帰しいたしましょう。」 <斉藤 越前守 太郎 憲宗>は 「それは誠か。」 と喜び、<真田 一徳斎 幸隆>公の申す通りに和議をまとめ、加勢に来てくれた武士達を帰し、武田の軍と人質を取り交わしたのでした。
<斎藤 越前太郎 憲宗>は岩櫃城から落ち延び北国の<長尾 伊賀守>を頼り、魚沼郡早川の郷
に住んでいましたが、一度故郷に帰りたいと企て、長尾家と栗林家から少々加勢を賜り、諸国の浪人をかき集めて500騎余りをひきつれて吾妻郡へと向かいました。
永禄8年10月下旬に嶽山城に到着し、弟の<城子丸>と一緒になってから白井城の<長尾 左金吾 憲景(一井斎)>にも援軍を要請し、中山家、尻高家、小川家そして<赤松 可游斎(後の小川 可游斎)>からの援軍を得、総勢2000騎余りの軍勢を整え旗を揚げたのでした。
このような時勢でしたが、何と嶽山城に籠城していた<池田 佐渡守>父子が付き人に変装して武田家側に寝返った<植栗家>を訪ねてきました。
<植栗>は<真田 幸隆>父子に<池田 佐渡守>父子の言い分を伝えました。 「池田親子は次のように申しました。 『我々は今まで主君である斎藤家を盛りたてる為に武田家の敵となりました。しかし城子丸様をお助けしていただければ、今後は無二の忠信を持って武田家にお仕えいたします。』 と。」 <真田 幸隆>父子は 「異論は無い。」 と返事を伝え、<池田 佐渡守>父子から人質を受け取り和議のための話合いを始めました。 こうして信州からお味方に駆け付けた<清野 刑部 左衛門尉><曽根 七郎兵衛尉>の両将も帰陣なされましたので、この年はどちらの陣も静謐に暮らしたのでした。
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